近世(児玉地域)

更新日:2020年10月01日

戦国時代の終焉と近世という時代へ

 天正 18年(1590年)、豊臣秀吉は大軍をもって小田原城を囲み、北国勢と呼ばれる前田利家・上杉景勝軍を信州から上州・武州に差し向けた。北国勢は各所を平定しながら武蔵に侵攻し、3万とも4万ともいわれる大軍が児玉地方に襲来し、上杉軍が生野山に陣取っている。この時、雉岡城代横地左近は戦わず鉢形城へ逃げ帰ったともいわれている。北国勢のため雉岡城が落城し、金屋地区の 真福寺 は本尊が失われたと記録されている。雉岡城の落城後、大将の前田利家は児玉の豪族久米氏に、戦争を逃れて各地に散らばった農民達を児玉の地に帰るよう命じた文書が残っている。

薄茶色になった紙に文章が書かれてある写真

雉岡城落城を伝える銘文

松平家清と八幡山城

 北条氏の滅亡後、関東へは徳川家康が関東に入った。家康は関東各地に有力な家臣を配置した。
 児玉の地へは家康の一族竹谷松平清宗が雉岡城の城主となった。雉岡城はこの頃は八幡山城と呼ばれた。城主はその後清宗からその子の家清へと代わった。松平氏は三河国から菩提寺龍台院を児玉に移した。また、松平氏は八幡山城の整備と、城下町の町割りなどを手がけ、現在の町割りの基本はこの時代に出来ている。慶長6年(1600年)に関ヶ原合戦で東軍が勝利すると、家康は八幡山で1万石を領した松平家清を三河国吉田へ所領替えした。以後、八幡山城は廃城となった。

俳句の隆盛と児玉俳諧宗匠の活躍

 俳諧が流行し児玉の地へも上野国藤岡で活躍した桐淵貞山の影響が及び、さらに中山道本庄宿から栗庵似鳩や春秋庵長翠の来村があり、特に春秋庵系の俳諧が広く普及する。

石で出来た墓と句碑の画像

久米逸淵墓と句碑

木で出来た長方形をしている俳句額の写真

城山金毘羅社の俳句額

 江戸時代も末期になると俳諧宗匠の 久米逸淵 が登場し、高崎・江戸・本庄と活躍する。地元では同じ系統で橿寮 細村青荷 が児玉地方を地盤として活躍する。児玉の八幡神社には逸淵建立の芭蕉句碑と青荷建立の川村碩布の句碑があり、能楽殿には嘉永期の俳句額2枚がある。隣接する玉蓮寺には天保3年の俳句額があり、久米逸淵の墓と鶯句を刻んだ句碑もある。

盲目の国学者塙保己一

塙保己一の画像

 延享3年 (1746年)に児玉郡保木野村(児玉町大字保木野)に塙保己一は生まれた。保己一は幼少の時に失明し、15歳で江戸に出て雨富検校の元で修行し、後に学問で大成し総検校にまで登り詰めた。
 塙保己一は盲目という大きな障害にもめげず、清廉潔白な性格と本人の努力により多くの人達の協力を得て和学講談所を開き、群書類従という一大叢書を完成した。また本業たる盲人社会の改革にも努力し大きな成果を残し、日本史上類い希なる偉人としてその名を残している。現在も郷里保木野の地に生家があり、近所に墓地がある。

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