中世(児玉地域)

更新日:2020年10月01日

中世という時代と児玉党

 治承4年(1180年)に伊豆にて源頼朝が挙兵すると、児玉町域の児玉党一族は秩父一族に従い平氏方として行動した。頼朝は石橋山合戦の敗戦後、密に安房国に逃れ再挙をはかり、房総の豪族上総介広常や千葉常胤らを味方とし大勢を整え武蔵国に進軍した。すると秩父一族も頼朝に味方し、児玉党をはじめとする武藏七党も続々と頼朝に従った。しかし石橋山合戦で頼朝に敵対した武士の中に児玉党の真下四郎重直がいた。彼は最後まで平家方にあって後に上洛して、北陸での木曽義仲と戦い討死にしている。
 頼朝に属した児玉党一族は、源範頼と義経らに従い平家との戦いに活躍した。
木曽義仲と戦った宇治川の合戦では塩谷一族は親子孫の3代にわたって参戦し、高齢の塩谷民部大夫家経は荒れ狂う宇治川の濁流に呑まれ流死する。
 平家と戦いで庄四郎高家は平重衡を生け捕りにし、さらに児玉党の一軍は平知盛の子平武蔵守知章と監物主従を討ち取った。
 児玉党一族は平家との戦いで得た恩賞や承久3年(1221年)に起きた承久の乱での戦功により多くの所領を獲得し、新たに得た西国や東北地方の所領に、一族の者を代官として派遣した。

鎌倉街道と児玉

 児玉党一族は児玉地域の本領に住み、後に 鎌倉街道 と呼ばれる道路を馬に乗って鎌倉幕府へ出仕して番役という勤めを果たした。児玉の地には鎌倉街道の上道と呼ばれる本道が通り、さらに本道から幾筋もの支道 (枝分かれ)が児玉地域各地に伸びていた。江戸時代の中期の児玉地域の村絵図には長沖付近の道筋に「鎌倉街道」と記されたものが残っている。

アスファルトで舗装され両脇に家や木々が植えられている鎌倉街道の写真

現在の鎌倉街道

児玉時国と玉蓮寺

 日蓮上人が鎌倉幕府に捕らえられ佐渡へ配流された時に、児玉の豪族児玉時国は日蓮に深く帰依し、配流中の日蓮を自邸に招き教えを請うて宿泊させ、さらに途中まで送ったと言われている。日蓮が後に幕府より赦免されて鎌倉に戻るときにも自邸に招いたと伝えられる。時国はこの後も度々身延山を訪れ、日蓮の教え受け、自邸の一角に草庵を建てて信仰したと言う。後に館を寺にしたのが玉蓮寺だと伝えられている。寺の前には日蓮が足を洗ったという足洗の井戸があり、本堂の裏の墓地には時国建立ともいう大型の釈迦一尊種子板碑がある。

長方形の石でできた板碑の写真

玉蓮寺の板碑

戦国時代の児玉

 戦国時代後半、小田原城を本拠とする北条氏が関東に進出する。児玉地域は山内上杉氏が 雉岡城 を一築き配下の夏目豊後守定基を城主とした。夏目定基は城下町の整備を開始し、生野山にあった実相寺を新町に移転させ、城下に浄眼寺や東福院といった寺院を開基した。 八幡神社 もこの頃八幡山の地から現在地に移転した。
 北条氏の武蔵侵攻により上杉勢は衰退し、関東管領上杉憲政は長尾景虎 (上杉謙信)を頼って越後に逃れた。以後、北条氏が武蔵から上野国まで勢力を伸ばし雉岡城は鉢形城主北条氏邦の家臣横地左近が城代として派遣された。

池の周りに草木が生い茂っている雉岡城跡の写真

雉岡城跡

周りを木々で囲まれた鳥居と神殿の写真

八幡神社

この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会事務局文化財保護課文化財保護係
〒367-8501
埼玉県本庄市本庄3丁目5番3号
電話:0495-25-1186
ファックス:0495-25-1193
メールでのお問い合わせはこちら