近代(本庄地域)

更新日:2020年10月01日

鉄道の開通や、養蚕市場の開設。
 宿場町から、養蚕の町本庄が誕生した。
ここに、日本の近代化に大きく貢献した、本庄町の歴史がある。

奥へと1本の道が伸びていてその両端に宿が並んでいる画像

明治政府の富国強兵政策は、近代化を急速に進展させた。明治7年、富岡官営製糸工場長の尾高惇忠は、生繭の買い入れを本庄宿の諸井泉右衛門らに依頼した。これが、繭市場本庄への出発点となった。つづく明治16年。それまでの主要交通であった中山道に加え、日本鉄道本庄駅が営業を開始した。明治22年、町村制施行により、本庄町が誕生。その後、製糸工場の進出や、糸繭商が増加し、繁栄の一途をたどった。

諸井泉衛の家族8人の写真

明治5年、仲町の諸井泉衛が前島密より、本庄での郵便取扱所の許可を得た。この人物を雄弁に物語るのが左の写真。ちょんまげにフロックコート姿で家族と記念写真をとったもの。この破天荒な人物こそ、秩父セメントの創始者諸井恒平の父である。恒平の子、諸井貫一は日本経団連・経済同友会を創設し、その他にも一族からは領事館公使や、芸術家などを輩出、日本の近代化に貢献した。

注意:ワンポイント 諸井恒平の師、それはほかならぬ渋沢栄一である。諸井家と渋沢家は江戸時代より姻戚関係があった。

大勢の人が乗り降りしている本庄電気軌道の写真

大正から昭和初期に走っていた本庄電気軌道

大正時代にはいっても、養蚕業は盛況であった本庄町。昭和29年7月1日には本庄市となり、今日にいたっている。

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