本庄市の古墳

更新日:2022年11月14日

本庄市の古墳あれこれ

  本庄市マスコット「はにぽん」のモデルは、小島の「前の山古墳」から出土した、全国的にも珍しい笑う表情を持つ「盾持人物埴輪」です。この埴輪は、平成24年10月から12月までパリで開催された「日本美術が笑う」展に出品され世界デビューしました。
  古墳に立て並べられた埴輪が、市のマスコットのモデルに選ばれたことからもわかるように、本庄市にはたくさんの古墳があり、全部で600基以上のの古墳が確認されています。これは埼玉県の市町村の中では2番目の多さです。
  ここでは、現存している主な古墳や埴輪窯跡について、年代を追って紹介します。

3体の笑顔の盾持人物埴輪の写真

盾持人物埴輪

笑顔のはにぽんのイラスト

本庄市マスコット「はにぽん」

鷺山古墳(さぎやまこふん) 「4世紀前半」

 鷺山古墳は大久保山丘陵と生野山丘陵の間の低丘陵上に位置する前方後方墳です。以前は前方後円墳か円墳と考えられていましたが、昭和60年に埼玉県県史編さん室が確認調査を実施したところ、全長60メートル、後方部幅37メートル、後方部高5.4メートル、前方部幅30メートルの規模を有する前方後方墳であることが明らかになりました。古墳の周囲には堀を巡らせ、堀の中からは底部に穿孔をもつ壺形土器や椀形土器などが出土しました。
  墳丘部分は未調査であるため、埋葬施設の形状や副葬品の内容は明らかではありません。葺石(ふきいし)はなく、埴輪も配置されていなかったようです。
  古墳の築造時期は、出土した土器の型式などから古墳時代前期中頃、西暦4世紀前半頃まで遡ることが推定され、埼玉県内では最古級の前方後方墳と考えられています。

畑の奥に見える鷺山古墳の写真

鷺山古墳

赤褐色をした丸い壺形土器の写真

壺形土器

前山1号墳(まえやまいちごうふん) 「4世紀後半」

 前山1号墳は大久保山丘陵の尾根上に所在する前方後円墳です。以前は円墳と考えられていましたが、平成16~18年度に古墳の形状を確認するため、本庄市教育委員会が確認調査を実施したところ、前方後円墳であることが明らかになりました。
 墳丘は、全長70メートル以上、後円部の直径約48メートル、高さ7メートルの規模があります。後円部斜面の一部には、こぶし大の河原石を並べた噴石が存在しています。また、後円部の周囲と前方部の側面には、堀がめぐっていることも確認されています。
 堀のなかからは、土器が検出されており、この土器の型式から、古墳が造られた時期は、古墳時代の前期後半、西暦4世紀後半頃と推定されています。
 古墳の頂上部は未調査であるため、埋葬施設の形状や副葬品の内容は明らかではありませんが、全長70メートル以上という規模は、古墳時代前期の前方後円墳としては、埼玉県内最大であることから、本庄地域のみならず周辺にも広く勢威を及ぼした人物の墳墓と考えられます。
 なお、1号墳南側の緩斜面には、3基の小型古墳(前山3~5号墳)が現存しています。また、大久保山丘陵の東麓には、横穴式石室をもつ東谷(ひがしやつ)古墳があり、前山1号墳とともに、大久保山古墳群として、埼玉県の重要遺跡に選定されています。

前山一号墳の手前に立て看板があり沢山の木々が植えられている写真

前山1号墳

金鑽神社古墳(かなさなじんじゃこふん) 「5世紀前半」

 金鑽神社古墳は生野山丘陵から北東へのびる尾根上に所在する古墳で、直径67メートル、高さ7メートルの規模があり、本庄市内では最大規模の円墳です。墳丘は2段に造成され、上段の墳丘には葺石が施設されています。また、墳丘の周囲には幅10数メートルの堀がめぐっていることも明らかになっています。
 埋葬施設や副葬品の内容は判明していませんが、墳丘から斧形や刀子形をした石製の雛形が採集されています。これらの資料から、古墳の築造年代は、古墳時代の中期中頃、西暦5世紀前半と推定されています。
 また、昭和59年に埼玉県県史編さん室がおこなった調査では、墳丘の中段で円筒埴輪が出土しています。
 この円筒埴輪の表面には、朝鮮半島の土器製作技法に起源する「格子タタキ技法」が用いられていることから、金鑽神社古墳の埴輪の製作に、朝鮮半島出身の土器製作技術者が参加していたことが考えられています。「格子タタキ技法」を用いて製作された埴輪は、このほかにも、かつて北堀にあった公卿塚古墳(直径65メートル)や生野山丘陵上に所在する生野山将軍塚古墳(直径60メートル)からも出土しています。
 これらの古墳も、金鑽神社古墳と同時期の築造と考えられていますので、5世紀前半の本庄市内には、何人かの朝鮮半島出身の土器製作技術者が、埴輪づくりに活躍していたことが考えられています。

大小のかけらが繋ぎ合わさった円筒埴輪の写真

円筒埴輪

沢山の木々が植えられている金鑚神社古墳の写真

金鑽神社古墳

秋山庚申塚古墳(あきやまこうしんづかこふん) 「6世紀後半」

 秋山庚申塚古墳は小山川右岸の丘陵先端部に立地する直径34メートル円墳です。周辺には現在でも数多くの古墳が残り、「秋山古墳群」を形成しています。
 昭和62年におこなわれた発掘調査によって、古墳の周囲には、二重の堀が巡らされていたことが明らかになっています。周堀からは円筒埴輪、人物や動物、家などの形象埴輪が出土しています。
 埋葬施設は南南西に開口する横穴式石室で、全長7.7メートルの規模があります。側壁は河原石を積んで築き、奥壁は結晶片岩の巨石を使用しています。石室の内部からは金銅装の馬具、鉄鏃(てつぞく)や大刀といった武器類、金銀製の耳輪、瑪瑙(めのう)製や碧玉(へきぎょく)製の勾玉(まがたま)、ガラス製の玉などの装身具類を中心に豊富な副葬品が出土しています。
 古墳が築造されたのは、古墳時代の後期後半、西暦6世紀後半ですが、副葬品の年代に幅が見られることから、7世紀の前半までに3回程度の追葬がおこなわれたことが推測されます。

墳丘の入口横に白い標柱がある秋山庚申塚古墳の写真

秋山庚申塚古墳

壁や天井が石で積み上げられてできた石室内部の写真

石室内部

宥勝寺裏埴輪窯跡(ゆうしょうじうらはにわかまあと) 「6世紀後半」

 宥勝寺裏埴輪窯跡は、古墳に立て並べるための埴輪を焼いた窯の跡で、大久保山丘陵の北側に伸びる尾根の東側斜面に所在しています。平成13年に、窯跡の範囲を確認するための調査を実施したところ、5基の埴輪窯跡が、良好な状態で残されていることが判明しました。
 窯の形は、丘陵斜面の傾斜を利用してつくられた半地下式の登り窯で、長さ7メートル前後、幅1.5メートルほどの大きさがあります。一番下の部分に薪を入れる焚口があり、その手前には作業をおこなうための平らな面が広がっています。窯の内部には薪を燃やす部分や埴輪を焼く部分があり、一番上に煙を排出するための穴が開いています。また、窯の周辺には、材料となる粘土を採掘する場所や、埴輪を造形する工房などの施設もあったと考えられます。
 窯のまわりからは、円筒埴輪や人物埴輪、馬形埴輪のほか、矢を入れる武具の一種である「靫(ゆぎ)」、大きな団扇のような形をした「翳(さしば)」など、さまざまな形の埴輪が出土しました。これらの遺物から、宥勝寺裏埴輪窯が操業していたのは、6世紀後半ころと推定されています。宥勝寺裏埴輪窯が立地する大久保山丘陵や周辺の台地上には、多くの古墳が築かれています。宥勝寺裏埴輪窯の埴輪も、この近くの古墳に運ばれたことが推測されます。

赤褐色をした4体のゆき形埴輪が並べられている写真

靫形埴輪(ゆぎがたはにわ)

東谷古墳(ひがしやつこふん) 「7世紀」

 東谷古墳は大久保山丘陵の東麓に築かれた円墳で、直径約27メートル、高さ約3メートルの規模があり、墳丘上には、かつて琴平社が祀られていました。墳丘の中心部には、横穴式石室が築かれ、現在でも、側壁・奥壁と天井の一部が残っています。石室は、側壁が外側へ弧を描くように膨らむ「胴張(どうばり)型石室」と呼ばれる型式で、側壁に榛名山起源の角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)を使用し、奥壁には片岩の板石を四段に積み上げ、さらに天井にも片岩の板石を架しています。
 東谷古墳の石室は、明治29年(1896)9月に、琴平社の氏子らによって発掘されたことがあり、その際に本庄警察署へ提出された「埋蔵物品及石室実況御届」(明治29年9月17日付)によって、当時の様子を知ることができます。それによれば、石室は間口1.8メートル、奥行き3.6メートルほどの規模があり、遺物は鉄製大刀1、鍔(つば)1、金環2、水晶製切子玉1、管玉1、土師器片9、須恵器片3、人骨片1が出土しています。
 古墳の築造時期は、石室構造の特徴や、埴輪をもたないと考えられることから、7世紀代と推定されます。大久保山丘陵には、古墳時代前期の前方後円墳である前山1号墳、古墳時代中期初頭の方墳である前山2号墳などがあり、古墳時代を通じて有力者層の墳墓が造営されていることから、東谷古墳も前代の有力者の勢威を受け継いだ人物の墓であったと推定されます。墳丘は現在でも良好な状態で保存されており、学術的にも貴重であることから、前山1号墳などとともに、大久保山古墳群として、埼玉県の重要遺跡に選定されています。

東谷古墳の前に案内板が設置されている写真

東谷古墳 

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