近代(児玉地域)

更新日:2020年10月01日

養蚕の隆盛と競進社

 横浜開港後、絹と蚕種の輸出は日本の大きな外貨獲得の手段となった。養蚕が急激に広まり児玉地域は一大養蚕地域となった。
 養蚕は江戸時代より盛んになっていたが、天然育という飼育は繭の取れ高が不安定で、養蚕法の研究が各地で行われた。飛躍的に飼育法が改良されるのは明治時代になってからで、 木村九蔵 が明治 10年(1877年)に 競進社 という養蚕改良普及組織を結成し、児玉町に競進社伝習所を設けて本格的な活動を開始した。九蔵は養蚕飼育法の研究を行い、主流だった清涼育という飼育法から温暖育という新しい飼育法を考案して飛躍的に繭の収穫を向上させた。さらに「白玉新撰」という新品種の繭を発表し、飼育法に適した蚕室を児玉町に明治 27年(1894)に建設した。これが 競進社模範蚕室 と呼ばれるもので、埼玉県指定文化財として保存されている。

木造の競進社外観写真

競進社

木村九蔵

児玉町域の合併の推移

 江戸時代の児玉町地域は児玉郡と那賀郡の2郡に属していた。児玉郡には八幡山町・児玉村・金屋村・長沖村・高柳村・保木野村・田幡村・塩谷村・飯倉村・宮内村・元田村・河内村・下稲沢村・中稲沢村・上稲沢村・太駄村・吉田林村・蛭川村・高関村・上真下村・下真下村・入浅見村・下浅見村の1町22村で、那賀郡には秋山村・風洞分・小平村の3村が属していた。明治時代になり初年に秋山村と風洞分が合併して秋山村になり、上中下3村の稲沢村も合併して稲沢村になった。
 続いて明治 22年に国を挙げての大合併が行われ、一時2ヶ村組合も存在したが最終的には八幡山町と児玉町が合併して児玉町に、金屋村と外7ヶ村が合併して金屋村に、秋山村と小平村が秋平村に、吉田林村と8ヶ村(東今井村と西今井村を含む)が共和村を結成した。
 この後、昭和 30年になると再び大合併の時代となる。今度の合併は明治期の合併より広範囲のものとなり、その実現に向けては大きな困難がおき各地で大いなる論争が起きた。結局、この年の合併はこの段階で児玉町・金屋村・秋平村・本泉村の1町3村により新しい児玉町が誕生した。昭和32年になり共和村は今井地区と北共栄を本庄市に分離することで児玉町と合併することで合意し、これにより児玉町が誕生した。そして今、平成の大合併となった。

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