児玉党を、武蔵武士を見直そう(令和2年2月1日号)

更新日:2020年10月01日

 昨年秋に本庄市にお越しになった埼玉新聞社の丸山名誉顧問の講演を聴きました。「本庄市民、埼玉県人はもっと先人の活躍にスポットを当てて誇りに思うべきだ…」。先人とは鎌倉幕府創立に功績のあった武蔵武士、本庄市民にとっては児玉党の武将たちです。
 源頼朝が鎌倉幕府を開く前の源平合戦、この戦いで武蔵武士たちは西国に遠征し平家を滅ぼします。頼朝の死後、承久の変により名実ともに北条武家政権が権力を確立しますが、その際にかつて遠征した西国に知行(領地)を与えられて赴任した武蔵武士は大勢いたと記録されています。中国地方や九州地方には「児玉」姓を名乗る方が今も大勢おられますが、西国に赴任した児玉党の末裔であることは確かです。例えば日露戦争の名将児玉源太郎もその一人です。児玉党ひとつをとってもその後多くの姓に分かれており、その意味で武蔵武士の末裔は西国にも数限りなくいると言って良いでしょう。
 西国に赴任した武蔵武士たちを待ち構えていた運命、それは蒙古襲来、元との戦いでした。「後世の皇室中心の歴史観からは武士がどうしても過小評価されてしまうきらいがあり、神風が吹いたから日本が勝ったことが強調されがちだが、実はとりわけ西国に赴任した武蔵武士の大いなる活躍があって元軍は博多湾から上陸できなかった。我が国の勝利は実に武蔵武士のおかげといって良い」と丸山会長はご自身が丹念に調べた研究の成果を聞かせてくださいました。実際に多くの古文書から武蔵武士の活躍は証明されているところです。元との戦いで疲弊しながらも新しい領地は与えられず、やがて鎌倉幕府も滅び室町そして戦国時代へと移りゆく中、児玉党も武蔵武士も歴史の陰に消えてしまいました。しかし今は名も無き我らの郷土に出自を持つ勇猛な武士団が日本を守ったこと、これは彼らの故郷に住む我々がもっと光をあて後世に語り継いで行くべきだと思います。

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