憤せずんば啓せず(平成30年6月分)

更新日:2020年10月01日

 おはようございます。6月1日、今月の月いちメッセージをお送りします。
 先日、本庄ロータリークラブ主催の講演会があり、致知出版社の藤尾社長の講演を聴く機会がありました。私なりに漠然と感じていたことをズバリ指摘され、思わず膝を打つような気付きを色々といただきましたので、その内容も引用しながら、今朝はお話を進めてみたいと思います。
 まず、のっけからみなさんにうかがいますが、みなさんは人間の持つ「怒りの感情」についてどう思いますか?
 人間の感情は喜怒哀楽といいますが、この喜・怒・哀・楽のうちの喜と楽、つまり喜ぶことや楽しむこと、これらはどちらかと言えばプラスイメージの感情を表す言葉ですし、哀、つまりかなしんだりあわれんだりという言葉も、プラスイメージとは言えないものの、人間らしい大事な感情として受け止められていると思います。
 では「怒」はどうでしょうか。
 そもそも怒りの感情とは、自分の思い通りにならない事に出くわした時に、どうしてこうなのだ、と湧き上がるもがきの感情です。じわじわくる場合もありますし、かっとくる場合もある、これが怒りです。古今東西、マイナスイメージの感情として受け止められています。「怒りの感情は身体に毒である」という教えもあります。では、だからといって怒りの感情はすべて悪いのか、根本から否定すべきものなのでしょうか。
 実はそうではないと思います。確かに、自分の思い通りにならないからとささいな事に腹を立てる了見の狭い怒り、これは周りにとっても迷惑ですし自分の体にも心によくないでしょう。しかし、そんな身勝手な怒りではなく、人間が理想と現実のギャップに感じる怒り、それは自分自身のあり方や、家族、友人のあり方や、自分の属する組織、果ては地域社会や日本国家、国際社会、地球環境のあり方までさまざまでしょうが、高い理想と残念な現実との間の大きなギャップを見た時、「これではいけない、何とかしなければ」と強く激しく思う事、この思いが人間になかったら、世の進展というものは絶対なかったし、ない、と私は思います。これを喜怒哀楽のどこに当てはめるかと言えば、これは喜でも、悲でも、楽でもない、やはり大きな意味での「怒」の範疇に入るのでしょう。
 この「何とかしなければ」という、やむにやまれぬ激しい思い、論語ではこの感情に「憤」という字をあてています。「憤り」の「憤」という字です。実はこの字自体も元々あまりプラスイメージはないのですが、冒頭に紹介した藤尾社長は、この「憤」という字こそ、現代日本人に大事にしてもらいたい言葉だと仰っていました。義憤や発憤という言葉を聞けば、みなさんにもイメージが湧くと思います。「俺は、私は、この状況を何とかしなければならない」という激しく強い意志、エネルギーです。論語には「憤せずんば啓せず」という孔子の言葉があります。啓は啓発啓蒙の啓です。「憤せずんば啓せず」、意味は、発憤するエネルギーの無い人間を教え導くことは出来ない、つまりそのような人間には何を教えても無駄だ、と言う意味です。味わい深い言葉です。
 喜怒哀楽の話にもどりますが、大事なのは何に喜び、何に怒り、何に哀しみ、何を楽しむか、ということなのでしょう。
 怒るということを、単に否定すべき感情として抑え込むのではなく、何に対して怒るべきか、憤るべきかが大事です。ここで人間の器の大きさや磨き方が試されると思います。
 みなさんには思いやりや優しさ、そして喜んで仕事をする前向きな姿勢はもちろんですが、己が心の中に必ずある「憤」、時には現状を否定して局面を打開するために必要な、大いなる怒りのエネルギーも、エネルギーを、ぜひ持ち続けていただきたいと思います。
 今日は先日拝聴した講演のお話を私なりにアレンジしてみなさんにお伝えしました。以上で月いちメッセージを終わります。梅雨のうっとうしい時期です。体調に充分注意して、お仕事、頑張ってください。

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