「被災地宮城県山元町に学ぶこと」(平成25年2月分)

更新日:2020年10月01日

おはようございます。2月1日、今月の月いちメッセージをお送りいたします。
来月11日で東日本大震災から丸2年になります。昨年11月23、24の両日、私は数名の職員とともに、宮城県南部沿岸の亘理郡山元町に行ってきました。遅ればせながらこの報告をいたします。
11月23日、我々は復興支援事業である「山元町第2回ふれあい産業祭」に参加し、本庄市内の各企業からチャリティー協賛いただいた商品を、山元町に本市から1年間派遣している中西主査と一緒に宣伝販売しました。商品は、はにぽんキャンディ、バームクーヘン、焼き菓子、紳士・婦人用防寒サンダル、スリッパ、卵、とうふ、ソース・ケチャップセット、そして本庄の水などです。いずれも完売し、売り上げを全て山元町に復興支援金としてお渡ししました。協賛していただいた企業には、心から感謝いたします。
当日は山元町長にいろいろと話を伺いました。山元町は1万6千人の人口のうち、633名の方々が犠牲になり、人口に対する死者行方不明者の割合は宮城県の自治体の中で3番目の多さでした。しかし震災後にマスコミに報道された回数が極端に少なかったため、全国からの支援物資やボランティアがなかなか集まらなかったそうです。この話には考えさせられました。
当時170人いた町の職員のうち、4人の方が住民の安否確認と避難誘導を行う中、津波により殉職されました。また、ご家族を失った、あるいは震災後の心労で体調や精神面にダメージを負った職員も多いとのことでした。住民の頼みの綱は役場であり、しかも役場の職員も被災者であるという状況。想像するに余りある苦労があったと思います。
次の日、我々は中西主査に山元町の被災地を案内してもらいました。線路とプラットホームだけが空しく残っている駅の跡、児童が先生と共に屋根裏部屋に逃げて辛うじて助かった小学校校舎、高齢者や子どもが大勢亡くなった「磯(いそ)」という漁港の集落跡などに行きました。すでにがれきは撤去され、被災当時の凄惨な光景はありませんでしたが、建物の基礎部分が残る枯れ草だらけの原野に、遺体発見場所を示す赤いテープをつけた杭が風に吹かれているさまは、あまりに荒涼としており、我々はただ無言で立ち尽くすしかありませんでした。
しかし復興への営みは始まっていました。お昼を食べた仮設住宅内のラーメン屋では、元の店は流されてもご夫婦で頑張っていました。集落が全く無くなった跡に小さな祠をまつり、再建に向けて女性の神主さんが健気に頑張っている八重垣神社というお宮もありました。現在全国の自治体からの支援によって行政機能も回復しつつあるようです。震災から1年8か月が経ち、被災地の方々は少しずつ歩み始めていました。
さて、日本人は災害の教訓を忘れやすいと言われますが、それはいつまでも悲しみに打ちひしがれない、という意味であり、度重なる災害に全く受け身で無気力なまま過ごしてきたのではありません。地域社会の絆の「勁(つよ)さ」はまさに震災の現場で発揮されましたし、また今般の震災では、地震そのものによる建物の倒壊はほとんどなく、はからずも我が国の耐震技術の進歩が証明されました。ただ残念ながら津波には無力で、また原発も事故以降、安全性についてさまざまな議論が起きています。しかし災害への備えについては、これはハード面もソフト面も過去から着実に進歩しているし、今般の震災を機に、改めて今を生きる我々の手で進化させていかねばなりません。
本庄市と山元町はそれぞれの民生・児童委員協議会の間にも縁があり、来る22日には山元町民生・児童委員協議会の会長を招き、震災当時の話を聞く講演会がセルディで開かれる予定です。震災の教訓を学ぶ大きな機会になるでしょう。
年も明け、ともすれば被災地を忘れがちな中、「皆が被災者に心を寄せつつ、互いに支え合ってさまざまな困難を克服していくように」との天皇陛下の年頭のお言葉に、私自身ハッとさせられました。今なお大変な思いをされている方々のことを忘れず、新たなる災害への備えを万全にしつつ、困難があっても乗り越えて行くんだという気構えを持って、前へ進んで参りましょう。
立春間近ですが、寒い日が続きます。お体を大事にしてください。

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