市指定文化財(有形文化財)
建造物 (8件)
名称 |
所在地 |
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本庄市千代田3-2-3 |
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本庄市本庄3-3-2 |
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本庄市中央3-3-6 |
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本庄市中央1-2-3 |
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本庄市児玉町児玉198 |
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本庄市児玉町児玉198 |
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本庄市児玉町秋山3566 |
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本庄市児玉町小平647 |
本庄金鑚神社大門
この大門は隣接する金鑚神社の別当寺であった金鑚山威徳院百蓮寺の総門でしたが、明治維新後に威徳院が廃寺となったため、金鑚神社が管理保存しています。この大門は文化11年(1814)の建立と伝えられています。各所に彫刻が配されていて、19世紀初期の作風を示す優れた例です。
円心寺は浄土宗寺院で、本庄城主小笠原左衛門佐信之が実父の酒井左衛門尉忠次の為に慶長8年(1603)に円心坊として建立されたといわれています。山門は天明年間の建築と伝えられており、木造二層建築の鐘楼山門です。楼門形式の仁王門ともいえますが、木割りを縦横に駆使した構造的にも最も発達した時期の山門といえます。
安養院は禅宗曹洞派の寺院で、その創立は戦国時代にさかのぼり、児玉党の後裔本庄藤太郎雪茂が、東富田に草庵を結んだことがその始まりと言われています。
本堂は安永8年(1779)に焼失後、寛政2年(1790)に再建されました。山門は元禄15年(1702)の建築で同院最古の建造物です。総門は享保元年(1716)の再建といわれています。
田村本陣は本庄宿の北本陣と呼ばれました。寛永19年(1642)より記録が残されており、同家の古さが偲ばれます。門は現在、歴史民俗資料館の前に移築されています。
随身門は児玉の有力者久米六右衛門一族を中心とした崇敬者によって宝暦6年(1756)に建立されました。随身門は神社を守る意味合いで左右に2体の右大臣と左大臣の木像が配置されています。
寛保2年(1742)に能楽殿が建立されたと言われています。能舞台は本舞台・後座・地謡座・橋掛りの4つによって構成されています。かつて鏡の間は能楽殿と一体として所在していましたが、大正2年の社務所建築の際に撤去され、新築した社務所と橋掛りが結合されました。
秋山十二天社は神仏混合の神社で、十二天堂とも呼ばれました。江戸時代、十二天社は度々火災に見舞われ、寛政11年(1799)に総柿葺き権現造りで再建されました。屋根は昭和54年の修築で銅板葺きに改修されました。
天明3年(1783)におきた信州浅間山の大噴火の犠牲者を弔うために建立されました。外観二層、内部三層で回廊式になっており、西国・坂東・秩父の百観音を安置しています。百体観音堂は明治21年(1888)に火災に遭い焼失し、明治42年に再建されました。通称「さざえ堂」と呼ばれます。
絵画(6件)
名称 |
所在地 |
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本庄市中央2-8-26 |
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本庄市児玉町高柳901 |
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本庄市宮戸107 |
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本庄市西富田 |
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本庄市本庄 |
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本庄市銀座 |
紙本着色武田信玄公画像
この肖像画は織田信長の弟の織田有楽斉長益の筆と伝えられています。画風は土佐派で製作時期は江戸初期と推定されます。
長泉寺の開山堂の天井に描かれた花鳥画で85枚あります。作者は江戸中期以降の狩野派の流れを汲む絵師といわれています。
宮戸八幡大神社拝殿の天井に描かれた28枚の花鳥画です。作者は金井烏州・金井研香・金井杏雨が各4面、柿沼山岳が1面、角田岱岳が7面、角田章岳・角田雄岳が各2面、不明が4面あります。
武正南盧晩年のもので、竹林七賢人・曲水図・山水図・恵比寿大黒図・徳川十六将の図などです。
鈴木南領に絵を学び、画のほかに書道・歌道も極めました。慶応元年(1865)に没し、円心寺に葬られました。
愛染明王像を描いた仏画で、三眼の憤怒相、腕は六譬、足を組んだ座像を表現しています。蓮弁や条帛、裳などに截金を施すなど極彩色の典雅なもので、鎌倉時代の特色が随所に見られます。
画家小倉青於の作品で文久元年(1861)の作といわれています。小倉青於は若年より名を成し、後に活動拠点を江戸に移しています。
彫刻(6件)
名称 |
所在地 |
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本庄市児玉町高柳901 |
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本庄市児玉町児玉1258 |
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本庄市牧西 |
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本庄市千代田 |
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本庄市西五十子622-1 |
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本庄市児玉町小平647 |
長泉寺木造延命地蔵尊半跏扶坐像
左脚を蓮台の下におろす半跏像で、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。玉眼を嵌入し、白毫珠をもっており、全体に綺麗な修復がなされています。現在は長泉寺山門二階に聖観音・持国天・廣目天とともに安置され、延命地蔵尊として信仰されています。
寄木造りの坐像で、右手に錫杖、左手に宝珠を持っています。玉眼を嵌入し、白毫珠の埋穴を残しています。墨書・紀年銘等は認められませんが、その特徴から鎌倉時代の製作と推定されます。
寄木造りの立像で、来迎印を結んでおり、眼・白毫・肉髷珠には水晶を嵌め込んでいます。鎌倉時代の製作と推定されていますが、舟形の光背は後補と考えられ、江戸時代の修理を受けています。
阿弥陀如来は坐像で、脇持の勢至菩薩・観音菩薩はともに立像ですが、それぞれ膝を曲げた前傾姿勢をとっており、阿弥陀仏の来迎の姿を示すものです。勢至菩薩は合掌し、観音菩薩は胸の前で両掌を上にしていますが、本来は蓮座を持っていたと推定されます。江戸時代の製作と考えられています。
文明元年(1469)銘。中世の石仏は極めて少なく、この地域で紀年銘がある石仏は、十一面観音坐像のみです。五十子陣の布陣の時期に近い造立で、相互の関係を窺わせます。
木造阿弥陀如来坐像・木造薬師如来坐像・木造釈迦如来坐像の三躯で、室町時代につくられたものです。それぞれ仏像の胎内及び底面に造立の由緒を記した墨書が残されています。これら三仏は成身院境内堂の三仏堂の本尊でしたが、現在は百体観音堂に移されています。
工芸品(5件)
名称 |
所在地 |
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本庄市児玉町児玉1258 |
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本庄市児玉町児玉647 |
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本庄市児玉町小平647 |
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本庄市駅南 |
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本庄市本庄2-4-8 |
法養寺の鰐口
天文2年(1533)の銘があり、児玉地蔵菩薩祈念所に願主の六郎次郎により奉納されたもので、その後洪水で流失し土中より発見され、元文5年(1740)に久米氏が購入し延享2年(1745)に再び地蔵堂に奉納したとの追刻があります。直径27センチメートルです。
百体観音堂にかかるこの鰐口は、直径180センチメートル、厚さ60センチメートル、重さは750キログラムもある大鰐口です。明治21年に百体観音堂が焼失した際に焼け落ちましたが、鰐口本体は無事であり、堂宇再建の時に再び吊るされました。寛政7年(1795)の銘があり、西村和泉守の鋳物師作です。
造立の年号は見られませんが、成身院文書中にこの大日如来像の記述があります。それによると、百体観音堂の建築に情熱をささげ、存命中に果たせなかった成身院第六十九世元真の遺命により、供養法要に参列した人たちが持参した中古金物や有り合せの銅や鉄で二尺五寸の大日尊壱体を造立したとあります。
幕末から明治期にかけて本庄宿で活躍した刀鍛冶長谷部十七吉國治の作品です。この脇差は表に「慶応三年八月吉日」、裏面に「長谷部若狭守國治」の銘があります。
大正院の不動堂が建立されたときに奉納された剣と伝えられています。剣の形象をとり、束は三鈷杵様に造られています。慶応3年(1867)の銘があり、長谷部国治の作です。
古文書(8件)
名称 |
所在地 |
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本庄市今井 |
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本庄市児玉町高柳901 |
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本庄市児玉町八幡山 |
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本庄市児玉町金屋 |
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本庄市児玉町飯倉 |
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本庄市千代田3-2-3 |
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本庄市銀座 |
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本庄市宮戸 |
今井鈴木家中世文書
中世文書8点。一部年代不詳のものを含みますが、永禄元年(1558)より天正18年(1590)に至る文書群です。いずれも戦国期における本庄市共和地区を中心とした北武蔵地域の状況を知るために貴重な文書群です。
中世文書2点。甲斐国より武蔵国秩父・児玉郡に侵入した武田軍が長泉寺に禁制を発給した文書と武田軍が去った後、鉢形城主北条氏邦の軍勢が児玉郡に侵攻して長泉寺に禁制を発給した文書です。同じ寺院に禁制を発給していることは、長泉寺のこの地域における重要な位置づけが伺えます。
中世文書3点。永禄4年(1561)に起きた河越籠城関連の文書です。北条氏尭感状、北条氏政感状、今川氏真感状の3点です。
北条家伝馬手形1点。後北条氏は領国をつなぐ交通網の整備として伝馬制度を整備し、この文書は各地の有力者に伝馬手形を発給したものの一つです。
中世文書1点。小田原城主北条氏直が叔父北条氏照の注進により富岡六郎四郎(秀長)の下野国足利表における戦功を賞したものです。
総州関宿城主の小笠原忠貴(本庄城主小笠原信嶺の孫)が、寛永16年(1639)に本庄宿の鎮守金鑚神社の社殿を寄進した時の祈願文です。
江戸時代後期の尊皇思想家高山彦九郎四十歳の時の日記です。前年に亡くなった祖母りん刀自の喪に服した様子などが記録されています。
天正18年(1590)8月の徳川家康が関東に入り江戸城を本拠に定めると、関東各地での検地を開始しました。天正19年に市内で検地を実施したことが確認できるのは、宮戸村と八幡山城主松平家清領分の二つがあります。近世初頭の村の様子を示す貴重な史料です。
考古資料(4件)
名称 |
所在地 |
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本庄市中央1-2-3 |
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本庄市中央1-2-3 |
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本庄市児玉町児玉2510-1 |
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本庄市中央1-2-3 |
御手長山古墳出土人物埴輪
旭・小島古墳群中の御手長山古墳より発見されました。農夫を表現しています。総高66.5センチメートル。
御手長山古墳は6世紀末頃の築造と考えられていますが、現在墳丘は削平されて存在しません。
小島前の山古墳の石室前から出土しました。特徴は頭頂部に筒状の飾りを有すること、大耳や鷲鼻、しゃくれ顎を持ち、笑う表情を有することで、大変貴重な資料です。前の山古墳は6世紀末頃の築造の古墳です。
鷺山古墳は4世紀中頃に築造されたと推定される前方後方墳です。古墳くびれ部周溝より底部穿孔壷と底部穿孔埦などが出土しました。壷・埦ともに葬送儀礼用に特別に作られたものと思われます。
鋳鉄製で、東国で鋳造されたものと考えられます。風鐸が出土した場所からは古代の土師器や須恵器をはじめ、平安期に相当すると考えられる瓦塔の破片が数多く採集されていることから、かつて寺山に所在した古代寺院の金堂に懸垂されていたものと推定されます。
歴史資料(16件)
名称 |
所在地 |
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本庄市都島864 |
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本庄市小和瀬178 |
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本庄市中央2-8-26 |
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本庄市銀座 |
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本庄市児玉町秋山2825-1 |
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本庄市児玉町小平442 |
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本庄市児玉町小平445 |
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本庄市西五十子425 |
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本庄市児玉町児玉202 |
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本庄市児玉町児玉100 |
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本庄市児玉町保木野 |
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本庄市児玉町保木野 |
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本庄市児玉町児玉2510-1 |
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本庄市児玉町児玉198 |
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本庄市千代田3-2 |
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本庄市中央2-8-26 |
正観寺の算額
享保11年(1726)9月、都島村の数学者戸塚盛政が観音堂に奉納した算額で、県内最古の算額です。算額は神社仏閣に数学を志す研究者(和算家)たちが祈願のために奉納しました。
この塔婆は、円柱状の自然石の三面を調整して三角柱状に整えられています。この地域の石製の塔婆は板石塔婆(板碑)が一般的ですが、板碑が必ずしも一般化していない時期の石製の供養塔です。
江戸時代末期の慶応元年(1865)における開善寺の寺域を明瞭に示している境内図です。寺域は広大で、現在の寺域の5倍近くありました。
幕末期の文久元年(1861)に皇女和宮が将軍徳川家茂との婚儀のために中山道を下向し、本庄宿の田村本陣に宿泊しました。随行した和宮の生母観行院及び家老は同宿の日向家に宿泊し、この時に拝領した品々です。
市内で唯一の中世造立の重制石幢の完形品です。特徴は笠部・龕部・中台部が六角形をしていること、相輪の請花部と笠の側部、基礎の四面に縦筋模様が見られることです。
材質は凝灰岩で、風化・破損が著しいですが、材質及び火輪・水輪の形状から鎌倉時代の造立と推定されます。右側の塔は空風輪が破損していますが、現状で全高176センチメートル、左側の塔は全高136センチメートルです。
浄厳は江戸時代の木食僧で、小平の岩谷堂で修行をしたのち、佐渡に渡って念仏道場を開きました。佐渡には、小平に残されている画像や名号の墨跡等と類似したものが残されており、浄厳の布教の軌跡をたどることができます。
康元2年(1257)銘の阿弥陀一尊種子板碑です。明瞭な二条線を持ち、幅のわりに高さの低い特徴的な形態をもっています。
嘉元2年(1304)造立の釈迦一尊種子板碑です。児玉時国供養の伝承があります。この板碑は高さ240センチメートル、幅54センチメートル、厚さ6センチメートルで、本庄市最大の板碑です。
文永2年(1265)8月造立の阿弥陀一尊種子板碑です。上部に二条線を刻み、阿弥陀の主尊一字を大きく刻んでいます。
貞治3年(1364)銘の阿弥陀一尊種子板碑です。中央に宝篋印塔を陽刻しています。この板碑と対になるものが、神川町長慶寺に所在しています。この2枚の板碑は双碑で、夫婦逆修板碑であったと推定されます。
乾元2年(1303)銘の阿弥陀一尊種子図像板碑です。主尊の阿弥陀如来一尊を種子ではなく円形の光背を持つ図像で表現しています。
本庄市児玉町飯倉地内に所在する山崎上ノ南遺跡B地点から出土しました。この木簡は、当時の稲籾の利息付貸付である「出挙」に関係した収納札です。宝亀2年(771)の銘があり、「税長大伴国足」とあります。
日清戦争の様子を描いた大絵馬です。日清戦争に従軍し、無事に帰国した児玉町の田島巳之吉と鈴木金平両氏が八幡神社の加護を感謝して明治29年(1896)に奉納したものです。
茂木小平は明治維新以後、蚕種の品質管理に尽力し、初代県会議員及び仁手村長、児玉郡会議員などを歴任しました。晩年には近隣の師弟を集めて漢学・習字を教え、門弟達は師恩に報いるため頌徳碑を建立しました。
慶安2年(1649)徳川家光より15石の朱印状を受けて以来、歴代将軍の朱印状を納めた漆塗りの被せ蓋造りの箱です。外箱と内箱が二重の入れ子になっています。
更新日:2020年10月01日