中世・近世(本庄地域)
中世。本庄氏の出現は、本庄の名の由来となった。
近世に入ると、本庄宿が出現し、発展への原動力となった。
これらの時代こそ、今日の拠点地域本庄の原点である。
古代末ころより、武蔵武士団が出現し、本庄周辺は児玉党の拠点となった。彼らの紋章は「軍配うちわ」。氏神は金鑚(かなさな)神社。首領は荘(庄)氏を名のっていた。やがて、分家がすすむとともに、本家は本荘(本庄)を名のる。市内北堀周辺には、字東本庄という地名がある。この付近が、本庄氏の拠点であったようだ。
室町時代。関東では古河公方と関東管領の二大勢力による戦乱状態がつづいた。本庄はその最前線の地となり、関東管領山内上杉が五十子陣(いかっこじん)を構えた。ここが鎌倉街道の要所だったからである。合戦中には連歌師の大家・飯尾宗祇や太田道灌も訪れ、由緒ある地となった。
戦国時代も後半になると、本庄宮内少輔実忠は、東本庄の地から現代の市役所付近に拠点を移動し、本庄城を築造した。しかし、天正18年(1590)豊臣方に加わった前田利家らの攻撃をうけ落城。本庄氏は滅亡する。江戸時代にはいると、かわって徳川方の小笠原掃部太夫信嶺が信州より新城主として迎えられた。その後、まもなく小笠原氏も古河へ転封され、本庄は天領となる。本庄城はわずか56年間で廃城となった。
廃城後まもなく、城の南方に中山道が整備され、城下町も移動し本庄宿が誕生する。ここは、交通拠点としての地の利があり、中山道を中心に越後、信州、周辺各地への分岐点となった地域。当初本町・中町・上町からはじまった宿内も、新田町、寺坂町、七軒町、台町へと膨れあがり、天保14年(1843)には人口4554名、家数1212軒と、中山道最大の宿場町にまで発展した。
注意:ワンポイント 中山道は69次67宿。本庄宿は江戸日本橋より出発し10宿目。
更新日:2020年10月01日