台湾の戦中世代の思い出(令和7年8月1日号)

更新日:2025年08月01日

今年は昭和20年(1945 年)の終戦から80年です。昭和42年生まれの私は、今は亡き戦前・戦中世代の多くの方々から、激動の過去の思い出を聞かされて育ちました。戦後80年、今回は少し視点を変え、35年前の台湾で出会った方々との記憶をたどってみます。
平成元年(1989年)8月からの1年間、私は台湾の台北にいました。中国語(北京語)を学びましたが、街では台湾語が広く話され、戦前台湾が日本領だった時代に教育を受けた人々がまだ大勢いて、親しげに日本語で話しかけてくれた時代でした。
留学生活も後半に差しかかった頃、台北萬華区の夜市で、日本風のおでんと酒を出す屋台を見つけました。そこに集う常連客の、日本語を話す当時60 ~70歳代の台湾人、日本でいえば戦中世代のおじさん、おじいさん達と、顔なじみになりました。ある夜、彼らはしみじみとつぶやきました。「陛下(昭和天皇)が亡くなり昭和が終わった。石原裕次郎、美空ひばりもいない。もう、俺たちの時代も終わりだね」台湾人の日本への慕情は当時も熱く、私はとまどいつつたずねました。「陛下(昭和天皇)ならともかく、裕次郎やひばりは戦後の歌手ですよ?日本と切り離された台湾と関係あるのですか?」と。すると一人が言いました。「キミ分かってない。日本敗けた、日本人帰った。でも、台湾人ずっと日本のラジオ聴いていた。だから裕次郎もひばりも、俺たちの歌だよ」と。正確な言葉は記憶があいまいですが、懐かしそうに、そして寂しげに語っていました。
日本への強い思いを持ち続けながら、「もうあなた方は日本人じゃないから」と戦後の日本からその存在を忘れられた人々がいた…自分も忘れていた一人だ、ということに私は気付かされたのです。もうあの方々のほとんどはこの世におられないでしょう。あの時、「日本を愛してくれてありがとうございます」と、はっきりお礼が言えたかどうかの記憶もあいまいで、今も悔やまれます。
今回は私の記憶の一端をご紹介させていただきました。皆さんは戦後80年と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。

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