塙保己一が現代へ遺してくれたもの

更新日:2021年05月28日

私たちの知らないところで未来に多くの影響を与え続ける塙保己一。
その存在がこれまでに遺したものは、歴史上に、そして現代を生きるわれわれに、大きな影響を与えています。
塙保己一が現代へ与えた影響について3つご紹介します。

原稿用紙は20 × 20 文字ではなかった?

塙保己一記念館の原稿用紙をイメージした広場

保己一記念館の原稿用紙をイメージした広場

 

 

 

 

 

 

みなさんも1度は400 字詰めの原稿用紙で、作文やレポートを書いたことがあるかと思います。その縦20 文字、横20 行の原稿用紙の起源と言われているのが、塙保己一が編さんした「群書類従」の版木なのです。
当時書物は、限られた人のところにしかなく、書き写しで伝えられたため内容が異なるものなどが多くありました。そこで塙保己一は、それらの書物を集め、補正し、分類、整理しました。それが群書類従です。
塙保己一は、その群書類従を多くの人が手にできるようにと、版木に彫り、印刷できるようにしました。その枚数はなんと17,244 枚。両面刻であるため、約34,000 ページ分になります。その版木が縦20 文字、横10 行の2段とされ、これが現代の原稿用紙の起源と言われています。塙保己一が編さんした群書類従の版木がなければ、一般的に使う原稿用紙の文字数は、400 字ではなかったかもしれません。

日本初の女性医師の誕生は遅れていた?

荻野吟子肖像画

荻野吟子

写真提供:熊谷市

 

 

 

 

 

塙保己一と並び、埼玉ゆかりの三偉人とされる荻野吟子。荻野吟子は、1851 年に現在の熊谷市で生まれました。19 歳のころ、自身が病気にかかり産婦人科で治療を受けたときに、女性ならではの気持ちを共感できる女性医師が必要だと痛感し、医師を目指すことを決意します。
しかし、当時は医師開業試験を受けることは女性には認められていませんでした。そこで荻野吟子を救ったのが、塙保己一がまとめた古代律令の解説書「令義解」でした。塙保己一が遺したその書物には、日本にもかつて女性医師のような者があったということが記されていました。
そのおかげもあり、荻野吟子は開業試験を受けることができ、日本で最初の女性医師となりました。荻野吟子は、開業医として熱心に治療にあたったほか、女性の地位向上や衛生知識の普及にも大きく貢献しました。
塙保己一が遺した「令義解」がなければ、日本の女性医師の誕生、そして女性の地位向上も遅れていたかもしれないのです。

荻野吟子記念館(熊谷市ホームページ)

小笠原諸島が日本の領土ではなくなっていた?

和学講談所模型(塙保己一記念館蔵)

和学講談所模型(塙保己一記念館蔵)

 

 

 

 

東京から南に1,000キロメートル 離れた太平洋に浮かぶ約30 の島々からなる小笠原諸島。現在、東京都小笠原村として、日本の領土となっています。小笠原諸島と塙保己一。一見関係がなさそうですが、実は、塙保己一が設立した「和学講談所」が、この小笠原諸島の領土問題に大きな影響を与えたのです。
塙保己一が亡くなって40 年もの歳月が経った1861 年。アメリカ、イギリス、ロシアなどとの間に小笠原諸島の帰属問題が持ち上がりました。幕府は、和学講談所の後継者である塙保己一の息子・塙次郎に、小笠原諸島に関する質問状を送りました。塙次郎は、小笠原諸島が日本の領土であることを証明する歴史資料を即座に提供しました。その迅速な対応により、小笠原諸島が日本の領土であることが国際的に認められました。これは、日本初の国学専門の教育・研究機関である和学講談所があったからと言っても過言ではありません。

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