塙保己一と渋沢栄一
渋沢栄一
(画像提供 深谷市)
渋沢栄一は近代日本経済の父と呼ばれるように、数々の功績を残した大人物です。現在埼玉県が顕彰する三偉人の一人であることはよく知られています。
渋沢栄一は、塙保己一の遺徳の顕彰や保己一が遺した群書類従の版木の保存等に大きな働きをしたことも知られています。
栄一は東京の温故学会の設立にも深く関与し、昭和2年(1927)に会館を建設し、その開館記念式典でこう述べています。
「(前略)故塙先生の事業、且つ古今に稀なる群書類従の版木に残っておりますのを後代に伝へたいと云ふことが我々塙先生と生地を同うする者には、此念慮が別して深かったのでござゐます。(後略)」
保己一と栄一は同じように武蔵国北部の出身でした。式辞にあるように「生地を同うする者」という同郷意識が強くあったものと思われます。
渋沢栄一は塙保己一のことをどう思っていたのか
栄一は保己一の能力や人となりについて、どのように考えていたのでしょうか。
1.抜群の記憶力を持っていた
2.強い精神力であった
3.活発な行動力を持っていた
4.清廉潔白で質素倹約であった
5.何事にも怒らず、人の意見によく耳を傾け、また人の為に心を尽くした
6.機転が利き、心に余裕を持ちユーモアがあった
などを、保己一の優れた点としてあげています。
この内、1の記憶力は保己一が生まれながらに強い資質を持ち、かつ本人の努力で一層高めていったものでした。それ以外は保己一は生涯努力を怠らず実践していったことでした。
また栄一は保己一のことを次のように語っています。
「検校 (塙保己一) は一面より見ると、学者であり、知識人であり、また歌人である。しかし、別の面から見ると、実業家であり、同時に政治家でもあった。」
保己一は国学者として活躍し、和学講談所を開いて教育者としても活動したことに加え、さらに和歌を学び、群書類従の編さんでは多くの和歌関連書物を収録しました。また群書類従刊行のために多くの借財をして出版事業を行ったことは実業家の仕事であり、当道座の総検校に昇進し、当道座の運営や群書類従編さんの資料調査等で幕府や御三家、さらに大寺院や神社と交渉も度々行っていました。栄一は保己一のこういった事績から、上記のように話したのではないでしょうか。
栄一は、記憶力以外は自らも実践していったことなので、若くして学んだ論語の世界と、塙保己一の生き様は、正に自分の人生哲学に強く関わっていたものではないでしょうか。
参考 「温故学會五十年史」(昭和32年)、「温故叢史」57号(平成15年)ほか
更新日:2021年06月24日